プルースト『失われた時を求めて』~第六篇「逃げ去る女」(集英社文庫、鈴木道彦氏訳、2007年)を読んだ。

第五篇「囚われの女」の読後感にも書いたが、この「逃げ去る女」も書誌情報が重要なのであらためて書いておく。
『失われた時を求めて』は、「スワン家の方へ」「花咲く乙女たちのかげに」「ゲルマントの方」「ソドムとゴモラ」「囚われの女」「逃げ去る女」「見出された時」の七篇で構成されているが、プルーストの生前に刊行されたのは第四篇「ソドムとゴモラ」までで、「囚われの女」以降は、タイプ原稿として残されていたものを関係者が出版している。このタイプ原稿は、「見出された時」の末尾に<完>と記されており、物語としてはいちおう完結しているが、プルーストはまだ手を入れて推敲するつもりだったとされる。実際、タイプ原稿にはいろいろ書き込みがあり、現在、「囚われの女」以降の三篇のテクストとされているものは、編集者がそうした書き込み等をタイプ原稿に組み込んだものだ。したがって、編集者の判断に応じて、テクストに微妙な違いがある。そうした違いがもっとも著しいのが第六篇「逃げ去る女」で、これには、タイプ原稿を打ち込んだのちにプルースト自身が手を入れてかなりの部分を削除した別の版「消え去ったアルベルチーヌ」がある。この削除はプルースト自身によるものなので、普通に考えればこれが第六篇の決定版といえるのだが、削除が多いために第七篇「見出された時」と話がつながらなくなる部分があるという。おそらく、プルーストは第七篇も大幅に書き直すつもりでいたが、時間がなくそれに手が回らなかったのだろう。
ということで、全体の話をつなげるため、私は「逃げ去る女」版を読んだのだが、鈴木道彦氏の翻訳を選んだ時点で、版による微妙な違いをどうするかは、鈴木氏の判断に委ねたかっこうになった。ついでに書いておけば、この「逃げ去る女」は、篇全体の構成や流れにムラがあって、やはり未完成の作品というべきだとおもう。
前置きはこのくらいにして「逃げ去る女」の内容紹介と感想だが、作品は「囚われの女」の完全な続篇で、主人公がパリの自宅に軟禁していた恋人アルベルチーヌが家出した場面から話が始まる。主人公は、アルベルチーヌを引き戻そうとして、友人のサン=ルーらを使ってはたらきかけるが、それは不成功に終わり、やきもきしているうちにアルベルチーヌは事故で死んでしまう。そこから、アルベルチーヌの喪失感の長い描写がはじまり、ついで、主人公がどのようにしてその喪失感から抜け出したかが三段階にわたって語られる。三段階目の最後は、母といっしょに出かけたヴェネツィア旅行で、それが主人公を癒す転機になる。
また旅行の終わりに届いた手紙で、主人公は、サン=ルーとスワンの娘で主人公の初恋の女性ジルベルトの結婚を知る。この結婚を機にジルベルトとまた親しく付き合うようになった主人公は、ジルベルト自身の口から、幼い頃に彼女が主人公にどのような感情を抱いていたかを知る。
それ以外のエピソードもいろいろあるが、ネタバレにならないよう、内容紹介はこのくらいにしておこう。
「囚われの女」「逃げ去る女」をとおして私によく理解できないのは、主人公のアルベルチーヌに対する感情で、それについては第五篇の感想についても少し書いたが、普通に考える恋愛感情とはかなり異なっており、所有欲と嫉妬が大きくからんでいる。そしてこの嫉妬は、アルベルチーヌには同性愛(レズビアン)の傾向があるのではないかというものなのだが、自分の恋人(女性)に、同性の愛人がいるのではないかという主人公のこだわりが、私にはよく分からないのだ。
つまり、これが、自分の恋人(女性)には異性の愛人がいるのではないかという疑念や嫉妬であれば、通常のものであり、私にも理解でき、またそれなりに共感できるだろうと思うのだが、そこでなぜ「同性愛」ということにこだわるのか、実感としてよく分からないのだ。
そこで考えてみると、プルーストは同性愛者(ホモセクシュアル)で、アゴスチネリという青年に目をかけており、このアゴスチネリが性を変えてアルベルチーヌのモデルになったとされる。アゴスチネリが同性愛者ではなく女性と親しくしており、その女性にプルーストが嫉妬したというシチュエーションを作品に入れ込んだというなら、状況としては理解できる。プルーストの分身といえる主人公を異性愛者として設定し、同性愛関係のエピソードをシャルリュス男爵に割り振ったために、話に実感が欠け、分かりにくくなっているのではないだろうか。
この「逃げ去る女」だけでなく、これまで読んだ『失われた時を求めて』という作品全体の書き方が、登場人物の心理の細かいところまで書き込んで一見非常にリアルなようにみえながら、時代(年代)はぼかしてあり、リアルとばかりは言いきれない。私にはとても読みにくい作品だ。