自治会の作業の終わりがようやく見えてきたので、アルバイトの通勤時間や休憩時間を使ってプルースト『失われた時を求めて』~第五篇「囚われの女」(集英社文庫、鈴木道彦氏訳、2007年)を読んだ。

『失われた時を求めて』の邦訳では、翻訳者による訳文の違いがよく話題になるが、この第五篇からはプルースト没後の刊行で、プルースト自身が最終的な推敲を行っていないのでテクストに曖昧な部分がある。このためどういうテクストを採用するかも翻訳者の判断にゆだねられ、誰の翻訳がいいのか、訳文だけでは一概には決定できない。結局、自分が選んだ翻訳者を信頼して読むしかない。
さて「囚われの女」は、次のような、主人公のパリの部屋の朝の描写からはじまる。
「朝早く、まだ顔を壁に向けたまま、窓の分厚いカーテンの上をもれる光線がどんな具合かもたしかめないうちに、私にはその日の天気がもう分かっていた。通りの最初の物音が湿気のために穏やかに屈折して聞こえてくるか、それともひろびろと冷たく澄んだ朝の空ろなよく響く空間を矢のように震えながら届いてくるか、それで私には天気が分かってしまう。」(「囚われの女」Ⅰ、19頁)
とある朝の情景であると同時に、神経過敏な主人公の性格を伝える描写でもある。
主人公は、北フランスの海辺の保養地バルベックで知り合った女性アルベルチーヌを自宅に同行し、一緒に住んでいるが、彼女を愛しているのか、一種の所有欲から彼女を住まわせているのか、自分でも分からない。しかしアルベルチーヌには同性愛の傾向があり、自分を愛してはいないのではないかと感じて、その感じにおびえている。そのおびえは、彼女の愛を得たい、彼女を完全に所有したいという気持ちに還元されていくのだが、このため日常生活では、アルベルチーヌの些細な行動の背景にある心理に不安をつのらせるばかりで、その猜疑心が彼女を反撥させる。こうしたことの連続から同棲生活はうまくいかず、主人公には、アルベルチーヌが何を考えているのか不明なままだ。「囚われの女」は、そうした主人公の不安やアルベルチーヌとのやりとりが延々と続いていく。
そうした描写のなかに、富豪ヴェルデュラン家の夜会のエピソードとそこでのシャルリュス男爵の失敗が挿入されるのだが、その描写や細かい会話のやり取りは、私にはあまりにも長いように感じられる(しかし『失われた時を求めて』の特徴と素晴らしさは、結局そうした細部描写にあるのだろうが…)。
ただこの第五篇では、これまでの諸編と違って、そうした日常の描写のなかに、プルーストの芸術論、作品論が挿入され、作品全体をまとめていこうという意思が明確に感じられる。
たとえば次のような自分の作品への言及にもそれははっきりあらわれている。
「私たちはだれしもこの世界を真実と思っているが、それは各人にとって異なった世界である。ここでは物語の都合上やむをえず浅薄な理由のみをあげるが、そうでなければもっとちゃんとした多くの理由を述べて、そのときどきの天気に従って世界が目ざめてゆくのをベッドから聞いているという本巻冒頭の描写が、実は浅薄な嘘であるのを示すこともできたろう! そう、私は仕方なくあの箇所を薄手なものにし、嘘をつくことになってしまった。だが、実はただ一つの世界ではなく何百万の世界、人間の瞳や知性とほとんど同じ数の世界があり、それが毎朝目ざめているのだ。」(「囚われの女」Ⅰ、363頁)
「シャルル・スワンよ、あなたが墓場に近く、しかも私がまだ幼かったころ、私はろくにあなたを知りもしなかったのだが、きっと嘴の黄色い若造と考えておられたにちがいない男があなたを自分の小説の主人公にしたればこそ、ふたたびあなたは人の話題になり、またおそらく生きつづけることになるのだろう。」(「囚われの女」Ⅰ、380頁)
こうした自分の作品への言及は、さらに大きな次のような問いにつながっていく。
「実人生は芸術を捨てた私の心を慰めてくれるのだろうか? 芸術のなかには、私たちの真の人格が人生の行動からは与えられないある表現を見出すような、より深い現実があるのだろうか? 実際、大芸術家の一人ひとりは他の芸術家と非常に異なっているように見え、日常の生活のなかに求めても得られない強烈な個性を深く私たちに印象づけるものだ!」(「囚われの女」Ⅰ、301頁)
「もし芸術が本当に実人生の延長にすぎないならば、そのために何かを犠牲にする価値があるのだろうか? そうなれば、芸術も人生同様に非現実的なものになるのではあるまいか?」(「囚われの女」Ⅱ、91頁)