渡辺浩氏の『近世日本社会と宋学<増補新装版>』(東京大学出版会、2010年)を読んだ。徳川時代前期の宋学(朱子学)の受容を、個々の儒学者のテクストよりも、むしろ同時代の社会状況の分析に力点をおいて考察した研究書である。結論からいうと、通常、徳川時代の日本思想では宋学の比重が非常に高かったと考えられているが、宋学は日本社会には受け入れられていなかったというものである。

理由はいくつかある。
まず全体的な状況として、渡辺氏は次のような点を指摘する。
「言うまでもなく、徳川将軍を頂く当時の政治社会体制は、本来儒学とはあまり関係なしに成立したものである。体制成立期にその指導者が朱子学者を抱えたことを、体制に対する朱子学の本質的適合性の現れとするのは、彼に過大な洞察力を想定することになろう。また逆に、(林)羅山が将軍に仕えたからといって、そのまま思想内容が幕藩体制にぴったりと適合し、彼は幕藩体制のイデオローグだったと決めてかかるのは、彼の立場の過大評価であろう。」(本書27頁)
「多くは浪人・医者・禅僧等から出身あるいは転身した専門の儒者達は、大名等に雇われたとしても、「物読み坊主」として、医者等と同じく、まともな武士とは格の違う特殊技能者として扱われるのが通例だった。」(本書23頁)
「全般に無学な当時の侍の多くは、「学問」を、一種高尚閑雅な教養と見做していたようである。しかもそれは、「学問」への当時の一般的な無関心の質からして、単なる無知とは言い難い。前記のように、広い文化的関心の昂まりの中で、儒書を和刻しても利潤の挙がりうる状態にはなっていたが、その儒書を、自己を導き天下を導くべき思想の書として読む者は稀だった。多くは一種の文化的スノビズムの対象としていたようである」(本書12~3頁)
以下、渡辺氏は朱子学が成立した当時の宋の社会と徳川社会の違いをあげて、徳川社会には宋学本来の思想を受けいれる余地がなかったことを指摘していくのだが、その最も大きな相違は、宋の政治社会は、一般人が科挙の試験を経て皇帝直属の官吏に登用される平等主義社会だったのに対し、徳川社会は政治に携わる武士の階級が世襲制で、しかも武士のなかでも身分が固定して下級武士が政治に携わることはなかったという点である。つまり、渡辺氏の分析では、宋学とは、ほんらい、平等主義の原則に基づいて下層階級から登用された高級官吏のための修身=政治学であるのに対し、徳川社会というより、広く前近代の日本社会では、高級官吏が自己の身を修めて政治を執り行う必要がなかったからである。
その他、宋の政治社会と徳川社会にはさまざまな違いがあるが、それらを勘案すると、宋学は、徳川時代前期の社会にとっては無用の学問だったとしかいいようがなくなる。
「仁斎学、徂徠学とも、見事な思想的達成であり、影響も大きかった。しかし、いずれもある自己矛盾を有する。仁斎学は、その教えの「通俗」化によって「世間」に受け容れられたかもしれない。しかし、結局教えの内容が「世間」に接近すれば、それをわざわざ外国の古代文献を経由して学ぶ意義は時に疑わしかろう。町人等には、より直截に俗に即いた石門心学の方がよいことにもなろう。また徂徠学は、「上」からの統治の学である以上、「上」なる者が採用しない限り、実効性を持たない。無用である。」(本書206~7頁)。
それでは、さまざまな儒学者による徳川時代前期の日本の宋学研究はまったく無意味だったのであろうか。以下が、渡辺氏の一般的な結論である。
「しかし、ともあれ仁斎学徂徠学は一時代を作った。それによって外来思想の不適合性を主動力とする儒学史の進行は一段落をつげた。徂徠学が拡がるだけ拡がった後は、外国思想の消化以外の種々の内的要因・動機に基づく多様な思想が展開する。時代は、儒学が一応定着する時代から、それを前提に種々の思想の競い合う展開期に入るのである」(本書207頁)