<北海道開拓秘史>の副題をもつ『赤蝦夷風説考』(教育社、1979年)を読んだ。
この本は、天明年間に書かれた蝦夷地(北海道)探検関連の三つの冊子『赤蝦夷風説考』(工藤平助)、『蝦夷拾遺』(佐藤玄六郎)、『蝦夷地一件』(編纂者不明)をまとめ、井上隆明氏が現代語に翻訳し解説をつけたもの。日本最初の北海道探検がどのように行われたかを記した根本史料集だ。

まずこの3書が記された当時の蝦夷地の情勢を簡単に記すと、18世紀のはじめにオホーツク海沿岸とカムチャツカ(赤蝦夷)に領土を広げたロシアは、さらなる南下政策をすすめ、樺太、千島列島の2方面から蝦夷地に迫り、すでにアイヌと接触していた。一方、蝦夷地を管轄する松前藩もアイヌを支配しており、樺太、千島列島は、鎖国体制がほころびる寸前になっていた。
『赤蝦夷風説考』は、天明三年(1783年)に仙台藩士・工藤平助がまとめたもので、オランダ書などから得た知識をもとにロシアの国情を記し、ロシアへの備え、ロシアとの交易の必要性、蝦夷地の金山開発などを訴えた意見書。
「カムサスカとは、赤蝦夷の正しい名である。よく調べたところでは、阿蘭陀(オランダ)の東どなりに、オロシャ国があって、都をムスコウビヤという。わが国では、ムスコベヤとよんでいる。オロシャは、寛文年中ごろから勢力をえて、正徳ごろには、奥蝦夷のカムサスカの国まで従えてしまう。蝦夷とカムサスカの間に、千島の島々がつらなる。ここをも、オロシャは享保ごろから侵しはじめ、城郭を構えているともいう。オロシャ人たちは、ときどき松前の近辺に漂流してくるそうだ。阿蘭陀に接しながら、そこから奥蝦夷まで手をのばしてきたと聞いている。以上の事情をかんがえ、また松前での取りさたと、阿蘭陀本の記載とが一致する箇所もあるし、私の考えもいれて珍しい話の一書とした」(本書48~9頁)。
この本では、情報源が限られているなかでのロシアについての知識の正確さや先見の明に驚かされる。
「日本の心得はといえば、いずれにせよ一本の通商路はあってしかるべきだ。以前までは通商の相手といえば、島えびすに限られていたし、蝦夷人同様うちすてておいてよかったが、オロシャのごとき大国であっては、そうはいかない。どんな国よりも恐ろしい国だし、どんな問題に発展していくか計りしれない。日本人を撫育し、言語をよく知り、そしてハンペンゴロが海上を乗りまわして、地勢調査を企てたとあっては、なにをたくらんでいるかわからぬし、うちすてておくことはできない。ねがわくは、交易の件を細かに吟味することだ。わたしの話に誤りがなければ、北の交易路が一本あってよいのだ。今のように、ひそかに陰で行なっていては、いつまでたっても陰湿なものから抜けきれまい」(本書56~7頁)。
この意見書は老中・田沼意次の目に触れ、蝦夷地の現状調査のため、幕府としてはじめての蝦夷地探検隊を派遣することが決定された。ただちに、探検隊の人選、船の準備、積み込む荷物の準備が行われ、天明五年(1785年)春、探検隊は蝦夷地に出発した。
探検の詳細は、すでに照井壮助氏の『天明蝦夷探検始末記 田沼意次と悲運の探検家たち』(影書房、2001年)の内容紹介というかたちで紹介したが、佐藤玄六郎、青島俊蔵らは天明七年(1787年)まで、2年間かけて蝦夷地を探検したり、特産物の仕入れなどを行って江戸に帰還した。その調査報告が『蝦夷拾遺』だ。ただし、田沼意次の失脚により探検の成果は否定され、報告書も受け入れられず私文書のままにとどまった。詳細な報告であるだけに、執筆者たちの無念がしのばれる。
そして、そうしたさまざまな経緯をまとめた資料集が『蝦夷地一件』である。
この三書によって、日本最初の蝦夷地(北海道)探検がどのように行われ、どのような成果をあげたのかが明かになる意義は大きい。
【参考】