本と植物と日常

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『ケンペル 礼節の国に来たりて』を読む

ベアトリス・M・ボダルト=ベイリーの『ケンペル 礼節の国に来たりて』(ミネルヴァ書房、2009年、中直一訳)を読んだ。元禄三年(1690年)から元禄五年(1692年)までオランダ東インド会社の医師として日本に滞在し、『日本誌』をとおしてヨーロッパに鎖国中の日本の状況を伝えたエンゲルベルト・ケンペル(1651年~1716年)の評伝だ。

ケンペル『日本誌』の背景を詳しく解説

本書にしたがって、まずはケンペルの経歴を簡単に紹介しておこう。

ケンペルはドイツ(神聖ローマ帝国)北部のレムゴという都市に生まれた。ポーランドプロイセンの大学で医学、哲学、自然科学を学んだのちスウェーデンにわたり、そこでスウェーデン国王のペルシア国王への使節の秘書官に選ばれ、1683年にスウェーデンを出発した。本人も予期していなかっただろう大旅行の始まりだ。使節団はロシアを縦断し、カスピ海沿岸からペルシアに入った。ペルシアに着いてから、ケンペルには新たな探求欲が生じ、オランダ東インド会社の医師としてさらに東に向かうことになった。この時点では、日本を訪問することは考えていなかったようだ。1689年から90年にかけて、ケンペルはジャワ島のバタヴィアに滞在し、ここで日本に向かうことを決めた。

ボダルト=ベイリーによれば、「彼を遠い異国まで駆り立てたのは、冒険心ではなかった。むしろ書物からは学べない、しかし必ずや知るに値すると思われる事柄を学ぶために、ケンペルは旅の苦労を買って出たのである。非キリスト教圏の異文化から何かを学ぶという知識欲の前提には、どのような民族であれ人間はみな等しいという考え方があった。そうした精神的態度は、彼の著作の中ににじみ出ていて、同時代の人にショックを与えた」(本書125頁)という。

ケンペルは、バタヴィアからシャムを経由して日本に向かった。日本滞在中は、オランダ使節の一員として、二度、江戸を訪問し、将軍に拝謁している。また滞在中は、今村源右衛門という青年を弟子にし、彼にオランダ語を文法からきちんと教えこむと同時に、源右衛門をとおして日本情報を得た。その後船路で、バタヴィア喜望峰を経て、1693年にヨーロッパに戻った。

故郷に戻ってから、10年間の旅行中に書いた資料をまとめ、1712年に『廻国奇観(Amoenitates Exoticae)』を出版して、旅行の成果を世に問うた。ただしこれはケンペルの資料のうちペルシアを中心とする一部だけをまとめたもので、生前、日本の見聞録をまとめることはできなかった。ケンペルが残した資料は没後にイギリスに売られ、そのうち日本についての記述が英訳されて、1727年にロンドンで『日本誌(The history of Japan)』として出版された。この『日本誌』は、出版後ただちに評判になり、翌々29年にオランダ語訳、フランス語訳が出版され、ヨーロッパ中に評判が広がった。

「ケンペルは、自分が見聞きしたことをきわめて端的に書き記している。キリスト教文化圏には属さないが非常に洗練された、世界の別の果てに存在する日本人という民族について、先入観を持たないで記録したケンペルの書きぶりは、ヨーロッパに住む何人かの人々に強烈な印象を与えた。時あたかも、キリスト教のみが唯一の神聖な宗教であるという考え方に対して、ヨーロッパの知識人たちの一部が疑問を呈しはじめたころである」(本書192~3頁)とされる。

ボダルト=ベイリーは、ケンペルの『日本誌』の特徴として、支配者である武士の視点からではなく、庶民の視点から日本社会を見ている点をあげている。「ケンペルが書いていることは、江戸時代のたいていの日本の歴史家が書いていることとは異なっている。ケンペルは五代将軍綱吉のことを賞賛しているのである。だがケンペルの書いていることは、まじめに受けとってよい。というのは、これは日本やその統治ぶりについて、武士階級の視点からのみ書かれたのではない、非常に少ない報告の一つであるからである」(本書168頁)。

ただし、「古代の地理書は、もはや17世紀後期の学者たちには満足のゆく手本とはならなかった。17世紀後期に至るまでに、百科全書派の人々が新しい基準を打ち立てていたのである」(本書114~5頁)という記述は疑問。なぜなら、『百科全書』は、18世紀中葉の出版物であるので。

全体としては、非常によくまとまった労作である。