本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

翻訳書の批評会で大阪に行く⑤ーーいよいよ批評会

ホテルを出るとき、お昼をどうしようか少し迷ったが、早起きしたので、お昼を食べると合評会の最中に眠くなりそうでやめにした(笑)。

会場となる大阪の大学のサテライトキャンパスが入っているビルは、ホテルから徒歩10分ほどで、阪神百貨店の少し先。東京の人間には、梅田(大阪)駅の構造はとても複雑だが、幸いなことに、去年、大阪に来たとき梅田駅を何度もうろうろしているので、今回はあまり迷わずにすんだ。

会場は阪神百貨店の少し先

ちょうど12時頃に、目指すビルにたどりつき、エレベーターでサテライトキャンパスに直行。このサテライトキャンパスは、ターミナルにあるので、交通の便がとてもよい。

12時頃に目的地のビルにたどり着いた

さて今回の私の翻訳書に対する合評会は、約20名の研究者が参加申し込みをしているのだが、オンライン開催ということで、実際に会場で参加したのは、会場を提供した大学の担当者、共訳者、私の3人だけ。あとはみんな自宅のPCを指定のネットにつないで参加なので、学会の会合といっても不思議な雰囲気だ。

PCをつないでのオンラインの合評会

さて、K済学史学会関西部会例会は定刻どおり12時半にスタート。全体は二部構成で、第一部はアダム・スミスに関する研究報告。発表後、あらかじめ指名されている代表による質問と報告者の応答、その後他の参加者からの自由な質問と応答があった。報告そのものもさることながら、それがすべてオンラインで行われるというのは、私にはとても珍しい光景だった。

そんなことで感心していると2時をまわり、いよいよ私の翻訳書の合評会だ。

ところで、私が翻訳した『精神について』という著作がなぜK済学史学会で取り上げられるのか疑問に思われる方も多いと思うが、この著作は「社会の目標は最大多数の最大幸福」という功利主義思想成立に大きな影響を与えた古典的作品とされており、そのあたりをいろいろ掘り下げていくのが大きな狙いということなのだろう。また、それでは精神のはたらきを主題とする作品とK済学がなぜ結びつくかというと、「人間は利己的な生き物であり、人間を動かすのは宗教や道徳ではなく欲望だ」という著者の主張が、生れたばかりの<K済学>という学問に大きな刺激を与えたということだ。逆から言えば、人間の行動を宗教や道徳から切り離さないかぎり、<K済学>という学問は成立できなかったともいえる。

さて、東京の自宅でPCを接続し参加しているメインコメンテーターの報告は、私の翻訳書の思想史的な重要性を指摘した、作品にとっても、翻訳者の私にとっても非常に好意的なものだった。それを受けて、まず共訳者が質問にこたえ、次に私。ここで私は、出発前にあらかじめ準備した書誌的な原稿を読むのを取りやめ、コメンテーターへの謝辞を述べてから、当日の朝ホテルで準備した、この日のコメントにより即したこたえを、目の前のPCに向かって読み上げた。それが終わると、今度はコメンテーターからPC画面をとおした細かな質問があり、共訳者と私が再度それにこたえた。これらの流れはとてもスムーズで、特に打ち合わせはしていなかったが、共訳者との連携もうまくいった。またPCをとおしての他の参加者からの質問も、こちらの翻訳の不備をつくというより、あまりなじみのない作品なので、翻訳や資料の不明点を確認するという感じのものが多かった。それまで、専門の研究者からどんな難しい質問や翻訳への批判が出てくるかと不安だった私は、安心するというより、「これで私の翻訳はきちんと認知されたのだ」と、晴れ晴れとした気分になった。思っていた以上の大成功だ。

こうして合評会は4時過ぎにぶじに終わり、共訳者、会場となった大学の担当者に挨拶して、会場を後にした。会場を出るまで、お腹がすくのもすっかり忘れていた。