照井壮助氏の『天明蝦夷探検始末記 田沼意次と悲運の探検家たち』(影書房、2001年)を読んだ。これは内容が充実しているというだけでなく、一人の人間が人生を賭して書いた感動的な著作だ。

まずは内容紹介。
天明五年(1785年)、老中・田沼意次の肝いりで徳川幕府としては初めての(そしてもちろん日本初の)公的な探検隊が蝦夷地に派遣された。目的は、北方の未知の大国であり蝦夷地に関心をもつとされるオロシャの蝦夷地接触の実情把握、松前藩がからんだ抜荷の実態把握、蝦夷地の金山探索、なかば未知の土地である蝦夷地の地理的探検など。責任者(普請役)として、山口鉄五郎、青島俊蔵、庵原(いはら)弥六、佐藤玄六郎、皆川沖右衛門の5人が選ばれた。それぞれの役割分担は、山口・青島が東蝦夷班として、知床半島からその先の千島列島探索、庵原が西蝦夷班として、宗谷岬からその先の樺太を探り、佐藤・皆川が松前にとどまって連絡や後方支援を行うこととされた。以下、探検隊の報告書『蝦夷拾遺』と探検の経緯等をまとめた『蝦夷地一件』によって、具体的な探索の実態が詳しく紹介される。ともかくこれは、日本初の蝦夷地探検の実態紹介であり、それ自体非常におもしろい(ちなみに、国後島、択捉島が日本固有の領土であるということは、この探索にからんでいる)。

探索は当初1年の予定で、天明五年のうちに江戸に帰着することとされていたのだが、現地の実態から計画変更を余儀なくされ、年をまたぐことになる。そうしたなかで、宗谷岬の厳寒の体験的把握を試みた西蝦夷班は、想像を絶する寒さのために普請役の庵原をはじめ5人の死者を出す。
そうした悲劇的な犠牲や苦難を乗り越えて、探検隊は天明七年までに江戸に帰着するが、江戸では田沼意次から松平定信への政権交代が行われており、蝦夷地探索は田沼が私的指示で行ったものとされて、探検隊一行は何も報いられないままお役御免となる。また探検の報告書『蝦夷拾遺』も幕府(松平定信政権)にはまったく受け入れられない。要するに、多大な努力と犠牲をともなった日本最初の蝦夷地探検は、一切なかったこととして闇に葬られてしまうのだ。
しかし本書の記述はこれで終わりではない。寛政元年(1789年)、蝦夷地で「クナシリ騒動」と呼ばれる先住民の叛乱が起こり、幕府はその実情解明のために再度普請役を蝦夷地に派遣することを決める。しかし、蝦夷地の実態を知る適当な人物は急には見つからず、天明五年の探検以降無役となって自宅で逼塞していた青島俊蔵を普請役見習として再派遣することにする。またその案内役として最上徳内も同行し(徳内は前回の探検にも同行)、再度国後島、択捉島を調査する。調査隊は同年十一月に江戸に帰着し、復命書を提出した。
青島は心中ひそかに調査へのねぎらいを期待していたとおもわれるが、意外にも翌寛政二年(1790年)正月、青島と徳内に捕縛の役人が差し向けられ、二人とも牢に入れられてしまう。嫌疑は、松前藩と内通して調査を怠ったなどとする曖昧なもので、これは松平定信が決定した措置であった。結局、青島は<田沼派>として定信に不審を抱かれたとしか思われないのだが、それならばそもそもなぜそうした不審な人物を調査役に選任したのかという人事のミスへの疑問は払拭されない。定信は青島を死罪にしたいという意向をほのめかすが、現場の奉行は青島の行動には非がないことを認識しており、定信の顔を立てて遠島の決定をくだす。処分決定後、青島は牢内で病死してしまう。40歳であった(徳内はその直前に釈放)。この一連の経緯から、著者・照井氏は定信の政治見識を厳しく批判する。
さてここからは、この作品執筆の経緯等に話はうつる。

そもそも著者の照井氏は、歴史研究者でも小説家でもなく、岩手県の県立高校で校長をしていた。そのとき、学区内の老婦人から巻頭に「不可許他見」と記された『蝦夷拾遺』の古い筆写本をわたされ、それがどういう内容の本なのかを調べ出したところから、探求は始まった。まず『蝦夷拾遺』がそれまで活字化されたことも紹介されたこともないいわば秘本とも呼べる稀覯本だということが判明し、照井氏は日本発の蝦夷地探検という内容そのものに興味をもつ。しかし調べていくうちに、この調査報告が幕府に採用されず私本にとどまった経緯が判明し、今度はその経緯解明に興味をもつ。そしてそれは、寛政の第二次調査と、その後の青島と徳内への幕府の仕打ちに対する強い糾弾となっていくのだ。
ほとんどの関係史料が活字化されていないので、調査は大変だったとおもうが、照井氏はほとんど独力でこれらの事実関係を調べて一冊の本にすべく原稿を書き上げ、その原稿を出版社に送った直後に持病の発作で急死してしまった。まさにこの本の出版にすべてを賭けたような照井氏の生き方は壮絶である。
原稿はその後、1974年に八重岳書房から出版された。ただながらく絶版となっており、私が読んだ版は、初版の不備を補って照井氏の子息・照井良彦氏が影書房から刊行させた第二版である。