オーストラリアの女性作家ジェラルディン・ブルックス(1955年生)の長篇小説『古書の来歴』(2008年、日本語訳・森嶋マリ、創元推理文庫、2023年)を読んだ。
この作品は、14世紀のイベリア半島で作られたとされ、現在サラエボのボスニア・ヘルツェゴビナ博物館に収蔵されている古書『サラエボ・ハガダー』がどのような人々の手をとおって同博物館に収蔵されるようになったのかを、架空の物語と1996年時点でそのハガダーを精査している学芸員ハンナ・ヒースの視点をからませながら描いた一種の歴史小説。オリジナル・タイトルは「People of the Book」で、「本をめぐる人々」といった意味。

ハガダーとはユダヤ教の過越祭を祝うための物語と祈りが書かれた書籍で、『サラエボ・ハガダー』は天地創造など聖書のさまざまな場面を極彩色の細密画で描いており、単に古いというだけでなく、ハガダーとしては異色のもの。そもそも、この本はいつどこで制作されたのかだけでなく、なぜ細密画が描かれているのか、どのような人物がその細密画を描いたのかなど謎が多く、またスペイン、ヴェネチア、サラエボという来歴の詳細も不明。近世に至ってからも、両次世界大戦、ボスニア紛争などにまきこまれ、何度か所在不明になりながらそのたびに奇跡のように発見され、現在まで伝わっている稀覯本だ(<サライェヴォ・ハッガーダー>で検索すると、Wikiのデータが出てくる)。ブルックスはそれを、サラエボ、ウィーン、ヴェネチア、タラゴナ、セビリアと空間と時間を移動させながら、それぞれの小さな物語を創造して追いかけている。それには、ユダヤ人迫害というヨーロッパの暗黒の歴史がからんでおり、『サラエボ・ハガダー』はそれらの危機的状況を潜り抜けてきた貴重な本でもある。
またこの作品が面白いのは、ハガダーの精査を依頼された学芸員ヒースの物語が外枠についていて、ヒースの生い立ち、母親との葛藤、恋愛などが調査にからんでくるところ。ヒースはオーストラリア生まれで、母子家庭で育った。父親がどのような男だったのかも分からない。母親のサラは医師・医学研究者としては有能だが多忙で家庭生活はまったく顧みず、子育ても家政婦にまかせっきりだった。ハンナはそんな母親に事あるごとに反発し、古書を鑑定する学芸員という地味で職人的な職業を選んだのも、つねに華やかな場所にいる母親への反発が関係している。主人公がオーストラリア人だというだけでなく、アポリジニの問題、シドニーの風景、そしてヒル・オブ・グレイスのワイン等と、現代オーストラリアのさまざまな要素が描かれているのも、この作品をおもしろくしている。
ボスニア戦争のあとが生々しい1996年春のサラエボから物語が始まるのも、古書を題材にしていながら、この作品が現代と深くかかわり、著者が現代の国際政治に関心をもち、読者の視線をまずそれに向けようとしていることを明確に示している。
さてサラエボに到着したハンナは、すぐに博物館にむかい、蝶の羽、血液の染み、塩の結晶、動物の白い毛といった『サラエボ・ハガダー』のページの隙間などに挟まれていた微細な物質から、この本がどういう経緯で現在まで伝わってきたかを推測していく。この部分は一種の推理小説になっており、その謎解きのおもしろさから、この作品は2011年に翻訳ミステリー大賞に選ばれている。
とても独創的でクリエイティブな作品だ。
(※通常私は、<サラエボ>ではなく<サラエヴォ>といった表記方法を用いているが、この記事での表記は、森嶋氏の翻訳にあわた。ちなみに森嶋氏の訳文は原文のSVO構文をそのままの形で日本語に置き換えた倒置形の文章が非常に多く、私には少し抵抗があった。)