堀田誠三氏のほ(名古屋大学出版会、1996年)を部分的に再読した。今回読んだのは本書の後半で、ピエトロ・ヴェッリ(1728年~97年)、チェーザレ・ベッカリーア(1738年~94年)の思想を紹介した第二部「ミラノにおける啓蒙思想の展開」だ。
私がこの著作およびミラノの啓蒙思想にこだわっている理由は次の二つ。
まず第一は、ヴェッリ、ベッカリーアらが中心となって形成されたミラノ啓蒙のグループ「拳の会(Accademia dei pugni)」が、1760年代のグループ活動開始直前に刊行されたルソーらフランスの思想家の著作の影響を強く受けていること。
第二は、拳の会のメンバー、ベッカリーアが執筆した『犯罪と刑罰』が、刊行直後の1765年に仏訳され、それをとおして全ヨーロッパに影響を及ぼしていること。
その確認が再読の目的だ。
さて、「拳の会」だが、堀田氏によれば、同時代のフランスの思想界と違って、若い貴族たちが中心となっていたのが大きな特徴といえるだろう。彼らは、古い因習にとらわれた父親たちの世代には反発していたが、政治体制そのものの変革はあまり考えておらず、スペイン継承戦争の結果1714年にミラノ公国の支配者となったオーストリアのハプスブルク家君主と結びついて、上からの改革によってミラノ公国の政治・経済状況を変えようとしていた。このため、社会契約論の立場を採るといっても、ルソーのように全階級の平等を主張して身分制社会を覆すことは、考えていなかった。また犯罪の起源に関しては、社会の成立当初から存在する身分・財産の不平等から生じるものとされ、それを死刑や拷問で処罰するのは不当だが、不平等社会から犯罪が生じるのはやむをえざることであり、その処罰を適正化し、軽減することが必要だというのが、基本的な考え方だった。
堀田氏の説明にしたがって、刑罰に関するベッカリーアの考え方を再度確認してみる。
「ベッカリーアによれば、刑罰の起源は社会の起源」(本書172頁)にほかならない。それを『犯罪と刑罰』の記述のなかから確認すると、人間たちは、「かれらの自由の一部を犠牲にして、残りを平穏かつ安全に享受しようとする。各人の利益のために犠牲にされた、自由のこの部分の総和が、一国民の主権を形成し、主権者とは、その合法的な受託者にして管理者である」(本書172頁、ベッカリーア『犯罪と刑罰』第1章からの引用)ということになる。「ベッカリーアはここで、自由の享受を保証するための社会契約の設立を想定しているのだが、理性をもたない民衆は、社会状態への移行を感性的に認識するのみである」(本書172頁)。したがって、「主権者の義務たる秩序維持の手段としては、『感性的契機』=刑罰による直接的規制のみがのこり、社会秩序の形成と維持の論理をさぐろうとすれば、刑罰論となるほかないのである。刑罰論は社会理論の一部ではなく、その基本原理となる」(本書172頁)という。
『犯罪と刑罰』は、アンドレ・モルレ(1727年~1818年)によって仏訳されたことで、全ヨーロッパに広く読まれたのだが、実は、このモルレの<翻訳>は、ベッカリーア自身が目を通したイタリア語版の忠実な翻訳ではなく、自分の考えで、イタリア語版の内容をかなり自由に組み替えている。それは、イタリア語版が社会理論についての作品だったのに対し、「モルレが『犯罪と刑罰』を社会理論書とみなしていなかったという推測を可能にする」(本書203頁)という。
これは、ベッカリーアたちミラノ啓蒙の思想を、ひいては思想を発信した側と受け取った側の思惑の違いを理解するうえで重要な視角だ。つまり、「社会契約論」は拳の会に受け入れられた段階で社会状況の違いから内容にズレが生じており、その代表作『犯罪と刑罰』がフランスに受け入れられる際にもう一度ズレが生じたということだ。
ちなみに、ベッカリーアはモルレらパリの思想家たちに招かれで、1766年10月にパリを訪問しているが2カ月足らずで帰国している。パリの思想界の雰囲気は、彼には合わなかったようだ。
『犯罪と刑罰』の受容や影響を考えるとき、このズレは大きなポイントといえそうだ。
※当ブログ内の関連記事
・『ベッカリーアとイタリア啓蒙』を読む
・モルレの『18世紀とフランス革命の回想』を読む