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『大黒屋光太夫、帝政ロシア漂流の物語』を読む

『大黒屋光太夫 帝政ロシア漂流の物語』(山下恒夫、岩波新書、2004年)を読んだ。天明二年(1782年)に駿河湾沖で遭難してアリューシャン列島のアムチトカ島に流され、さまざまな苦難の末に寛政四年(1792年)日本に帰還した伊勢の船頭・大黒屋光太夫(宝暦元年<1751年>~文政十一年<1828年>)の事績を紹介した作品だ。

帝政ロシアへの漂流の物語

太夫が船頭をつとめる神昌丸は、大量の御用米などを積んで天明二年12月に伊勢湾の白子港を出港した。乗組員は17名。しかし駿河湾沖で嵐にあって漂流し、流されること8カ月、翌年7月にアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。これだけでも奇跡と言っていいかもしれない。一行はそこから、カムチャツカ、シベリアと移動し、苦難の末に帰国を許されて、寛政四年9月、ロシア船で蝦夷地に帰還した。

太夫ら漂流民一行が当時シベリア総督府が置かれていたイルクーツクに到着したのは1789年2月。シベリアを領土とした当時のロシアは、さらなる南下政策をすすめており、オホーツク海を安全に航海するためには、蝦夷地を船の休養地や補給地として利用することが不可欠と考えられていた。このため、日本からロシア領に漂着した光太夫以前の漂流民たちは、厚遇されたとはいえ、ロシアに帰化させられ、日本語教師として現地で働かされた。しかし光太夫らはあくまでも帰国を希望した。このため、光太夫は単身でロシアの帝都ペテルスブルクに赴いて女帝エカチェリーナ2世に拝謁し、帰国を許された。

蝦夷地に戻ったときには、一行は3人になっており、そのうち小市は帰国後まもなく病死し、無事の帰還は光太夫と水夫の磯吉の2人だけだった。

ここまでは、漂流民の苦労話だが、山下氏は帰国時のロシアと幕府の交渉経過やその後の二人の扱いについても詳しく記している。

まず二人の身柄は、寛政五年6月、日本側に引き渡された。8月、二人は江戸に着き、幕府による再度の吟味ののち、9月18日、ロシア服を着て将軍家斉に拝謁した。これは非常な厚遇といえる。

将軍上覧が済むと、二人に対する厳戒態勢は解除され、ロシアでの見聞は蘭方奥医師桂川甫周らによって『北槎聞略』『北槎異聞』としてまとめられ、将軍に献呈された。

その後二人は幕府から金と住居を支給され、実質的に幕府お抱えの身となった。「二漂民を江戸にとどめ、幕府の養い人としたのは、ロシア情報の独占を意図したのであった。同時に、信牌を持参するロシア船の長崎来航を予想し、光太夫を通訳として用いることも考慮したものとみられる」(本書219頁)という。二人とも帰郷は許されなかったが、江戸での行動は比較的自由で、蘭学者大槻玄沢が開いたオランダ正月の会に出席し、ロシアでの体験談を語ったことなどが知られている。

以上の事実から見るかぎり、制限はあったものの、光太夫をとおしてロシア情報が国内に広まっていくことを、幕府は黙認していたとおもわれる。これらのエピソードからは、厳格な鎖国体制といわれる徳川幕府の、柔軟な対外政策の一面が窺われ、興味深かった。

 

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