『精神について』の一次校正も残り100頁を切り、もうすぐ終わり。昨日は、朝食と夕食をつくった他は、一日中家で校正をしていた。
さて、昨日校正していたなかに、「Quel homme … ne préféreroit pas la palme de la virginité aux myrthes de l’amour, et n’iroit pas enfin s’ensevelir dans un Monastere?」という文章がある。私はこれは、意訳すれば「愛の銀梅花よりも童貞の棕櫚を好み、しまいに修道院に引きこもりに行かないのはどんな男だろうか?」ということ、つまりは、「愛の喜びよりも独身の栄冠を好み、ゆえに修道院に引きこもる男などいるのだろうか?」ということだと思うのだが、この箇所の訳文をつくった共訳者は「virginité」に<処女>という 訳語を充てていたので、「それはないだろう」と思わずプッツンして、それ以降、校正が少しも進まなくなってしまった。
この文章、じっくり考えると、上では引用を省略した「celui…」の部分も意味をとらえるのが難しい。なんで<最も完全な状態>は<救済が明かにされることが最も少ない>のだろう?
ということで、英訳を参照することにした。
するとまず、原文の「virginité」は英語で「celibacy (独身)」と置き換えられているので、問題は一つ解決。英訳者は、原文そのままの「virginity」という訳語を選ぶと読者に<処女>と解釈される可能性があり、文意がとらえにくくなると考えたのではないだろうか。
次は、その前の「l’état le plus parfait, celui dans lequel son salut seroit le moins exposé」だが、まず<exposer (英訳はexpose)>には<説明する、述べる>という意味があるので、訳語としてはこれを採用して、「最も完全な状態、つまり彼(その男)の救済が最も少なく説明されている状態」と訳すことにして、「最も完全な状態、すなわち自分の救済が最も危険でない状態」という共訳者による元の訳文を校正。
では、その文意だが、著者は、元々人間の欲望や快楽を抑制することは好ましくないし、そもそも不可能であると考えているので(このあたりは、少し後の時代のサド侯爵の考え方などにつながる)、宗教が語る<最も完全な状態>という概念を否定的にとらえており、それがなぜかというと、<完全な状態での救済は絵空事だ(最も少なく説明されている)>というのではないだろうか。したがって、これに続く部分の記述で、通常は清らかとされる修道院での独身生活が否定され、<愛の快楽>よりも<童貞の棕櫚(栄冠)>を好むことはばかげていると、自然につながっているのではないだろうか。
あえて説明すると、この箇所の文意は以上のような感じになると思うのだが、これを校正に反映させるのはかなり面倒(笑)。
ちなみに、「童貞の棕櫚」の棕櫚(palme)は、カンヌ映画祭の栄冠である「パルム・ドール」のパルムと同じで、古代ローマで競技や戦争の勝利者に棕櫚の葉でつくった栄冠を授けたことによる。したがって、この言葉は<棕櫚>とも<栄冠>あるいは<勝利>とも訳せるのだが、『精神について』の文脈では、すぐうしろの「愛の銀梅花」と対比されているので、<棕櫚>という訳語をあたえて象徴的な意味をもたせる方が私は好きだ。
ついでながら、<palme>は<calme(静寂)>と韻を踏ませることが可能で、有名な例としては、ヴェルレーヌの
Le ciel est, par-dessus le toit,
Si bleu, si calme!
Un arbre, par-dessus le toit,
Berce sa palme.
屋根の向こうで、空は
あんなにも青く、あんなにも静か!
屋根の向こうで、一本の棕櫚が
枝を揺すっている。
がある。