濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』を観たのをきっかけに、その原作である村上春樹の短編小説集『女のいない男たち』(文春文庫)と、小説および映画のなかで重要な役割を果たすチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』(新潮文庫、神西清訳)を読んでみた。
村上春樹の『女のいない男たち』は、6編の小説で構成された短編小説集。村上自身の<まえがき>によれば、この小説集はいろいろな機会に書いた短編をまとめたものではなく、表題の<女のいない男たち>をモチーフした短編を意図的に連続して書き、それを短編小説集としてまとめたものということだ。なので、6つの短編がバリエーションのようなかたちになっており、短編小説集としてのバランスはすごくいい。小説『ドライブ・マイ・カー』はその冒頭に据えられており、濱口監督は、それに同じ短編集に収載されている『シェエラザード』、『木野』のエピソードを加えて映画の脚本を書いたという。このうち、小説『ドライブ・マイ・カー』は作品としていちおう完結しているが、『シェエラザード』と『木野』は完結感のない、話の途中で書くのをやめてそのまま放り出したような作品。<女がいない>それなりの雰囲気はあるが、作品の評価ということになると、私にはよく分からない。6つの短編のなかでは、『ドライブ・マイ・カー』が一番まとまりがよいような気がする。
さて、小説でも映画でも主人公の家福(かふく)は、俳優・演出家であり、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』に出演(演出)する。内容は、家福に言わせれば「救いようのない話」(64頁)。しかし考えてみると、『ワーニャ伯父さん』の物語は、死んだ妹の夫の後妻にあてもない恋をする中年男ワーニャの話で、村上的に考えるとやはり<女のいない男たち>の世界に属する。その意味で『ドライブ・マイ・カー』と『ワーニャ伯父さん』には、たまたま選ばれたという以上の親和性がある。また、『ドライブ・マイ・カー』の若いドライバーみさきと『ワーニャ伯父さん』のなかのワーニャの姪ソーニャはどちらも「不器量」で地味な若い女性ということになっており、その構造上の類似はかなり重要だ。というのも、小説『ドライブ・マイ・カー』は、その地味なみさきよって妻を亡くした悔恨から癒されるという話だからだ。
映画は、家福の死んだ妻の内面を描くために『シェエラザード』と『木野』のエピソードを借りてきたわけだが、それが成功しているかは、私には疑問。特に『シェエラザード』から借りた夢の話は、個人的には冗長に感じられた。また、この話を挿入したためにドライバーみさきを登場させるきっかけも変わり、小説では最初から登場するみさきは、映画ではようやく中盤に登場する。地味なドライバーみさきによる癒しという原作小説の中心構想は、妻のエピソードが膨らんだ分薄まっているようにおもえる。
ただ、映画『ドライブ・マイ・カー』の優れたところは、原作から引き継いだそうした枠組みにあるのではなく、濱口監督の独自アイデアによる『ワーニャ伯父さん』のオーディションや稽古風景のシーンにあるのではないだろうか。原作には、家福が出演する『ワーニャ伯父さん』は、「明治時代の日本に舞台を移して翻案」(32頁)したものとだけ説明されているが、映画のなかの『ワーニャ伯父さん』は、無国籍・無時間的な舞台をさまざまな国籍の俳優がそれぞれの言語で演じることになっている。映画『ドライブ・マイ・カー』を観て私が一番感動したのは、個々の言語を超えたコミュニケーションの可能性だ(それには身体的言語である手話を含む)。この可能性があってはじめて、家福は、妻の記憶やその最後の言葉を聴くことができなかったという悔恨から癒されていくのではないだろうか。
また映画では、たまたま広島がロケ地となったことから選ばれたゴミ処理場の無機的なシーンも印象的。
こうした意味において、映画『ドライブ・マイ・カー』は、原作小説を超えたところに独自のイマジネーション世界を構築した、優れた作品だと、原作およびチェーホフ作品を読んで実感した。