本と植物と日常

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『蓋棺 庄内藩は一度も官軍に負けなかった』を読む


『秋田・庄内 戊辰戦争』(郡 義武)に続いて、庄内史シリーズの一環として『蓋棺 庄内藩は一度も官軍に負けなかった』(茶屋二郎、ボイジャー、2014年)を読んだ。戊辰戦争の際に庄内藩の重役として軍事掛を務め、戦後の明治初期には庄内地方復興と対外的な折衝にあたった菅実秀(=菅秀三郎、1830年1903年)の行動を、主として西郷隆盛(1828年~1877年)との交流を中心に描いた歴史小説だ。

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庄内藩西郷隆盛の交流を描いた『蓋棺』

この小説の前史として、次のような事実がある。庄内藩戊辰戦争(1868年<慶応四年/明治元年>)で朝敵とされ、秋田藩と官軍の連合軍と戦い、連戦連勝の進軍を行ったが、明治元年9月、秋田城攻略を目前にして撤兵した。これには、寒さの到来で装備が不足した、人員や武器の補給が続かない、奥羽越列藩同盟参加の他藩が次々に降伏し孤立化する怖れがあるなどの理由があったが、いずれにしても庄内に兵を納め、官軍の沙汰を待つことになった。

そこに乗り込んできたのが総司令官の西郷隆盛で、庄内・鶴岡に着くと単身で菅を訪問する。菅はまず、「西軍の総大将が一人で羽織も羽織らずに袴姿で敵地を歩くという豪胆さ」(15頁)に驚くのだが、それに続いて西郷は、「譜代の酒井家が三百年の恩顧のある徳川家のために国運をかけて戦ったのは当然のことで、羲においてもかくあるべきで何も恥ずかしいことはありませぬ」(19頁)と意外な言葉を述べ、謹慎中の藩主・酒井忠篤との面会を求める。そしてその会見で「貴家がすでに朝廷に謝罪した上は敵視は只今限りで、もはや兄弟も同様でございます」(31頁)と、寛大な態度を示す。

この時点から西郷と菅実秀とのやりとりが始まるのだが、菅は西郷の人格に惹かれ、庄内救済のためことあるごとに実力者・西郷に頼っていく。

西郷がなぜ庄内に寛大だったのか、この小説を読んでも疑問は残るが、その寛大さは事実であり、小説の後半は、菅からみた西郷の政治思想の解明と、西南戦争にいたる経緯に比重がおかれる。そして西郷と大久保利通の相次ぐ死を紹介し、『正邪、今なんぞ定まらん、後世、必ず清を知らん』という西郷の言葉で全体が結ばれる。

菅の息子が鹿児島で西郷が主宰する私学校に入学するなど史実と異なる部分もあるが、私にとって、庄内史の認識を深めるにはかっこうの本だった。

私の出身地・庄内を描いているということで採点はどうしても甘くなるが、歴史小説としてはまずまずではないだろうか(少なくとも『竜は動かず』よりは丁寧に書かれている)。ただあえて言えば、地の文で西郷隆盛を「西郷先生」と表記しているのに違和感をおぼえた。ここは、「西郷」という表記の方が、西郷隆盛の言動に客観性を与えられたとおもう。