昨日は新国立劇場でのワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』新演出公演の初日だったので、楽しみにして行ってきたが、失望した。
この公演、そもそも昨年新国立劇場と東京文化会館の初の共同企画として制作されたもので、去年の両公演はコロナで延期となり、今年夏の東京文化会館の公演もコロナ感染者増加で中止となって、昨日ようやく、待望の初日を迎えたといういきさつがある。
さて公演の方だが、字幕をじっくり読みながら聴いているうちに、まずワーグナーの台本そのものに矛盾があるのではないかという気がした。というのは、『マイスタージンガー』はドイツでの歌の伝統をどのように維持し革新していくかがテーマで、伝統が行き詰ったとき、新しい歌い方(歌い手)を導入し、それを支持するかどうかは民衆に判断を仰ぐべきだという物語なのだが、肝心のワーグナーの音楽自体が民衆的かという疑問がふつふつと沸き起こってきたのだ。つまり、ワーグナーの主張はかっこいいが、彼の音楽そのものは少しも民衆的ではないのではないかということだ(笑)。
それはさておき、ともかくワーグナーの主張を認めて最後の歌合戦まで聴きとおすと、今度は演出(J・D・ヘルツォーク)が、革新による伝統の継承というワーグナーの意図を否定するというどんでん返しがあった。これにはあっと驚いたというか、一瞬舞台の上で何が起こったのか理解できず、割り切れない幕切れだった。これは結局、演出家の解釈の押し付けであって、演出という範囲を超えているのではないだろうか。
舞台衣装はスーツなど現代的なもので、歌合戦のときに挑戦者である騎士ヴァルターがネクタイをきちんと結んでいないことがちょっと気になったのだが、それもそらく演出と関係したものだったのだろう。
大野和士が指揮したワーグナー公演では、数年前に観た『ローエングリン』もワーグナーの意図を否定するような演出を容認していて、それが大野氏の考え方なのかなともおもうが、そこまでして公演する必要があるのか、私には疑問だ。
今回の公演、コロナ予防のため「ブラボー」などの歓声はおやめくださいというアナウンスが何度も流れたが、終幕と同時に大きなブーイングがあった。
歌の方は、トーマス・ヨハネス・マイヤーの主役ハンス・ザックスとギド・イェンティエンスのポーグナーの低音2人は見事だったが、若い騎士ヴァルター役のシュテファン・フィンケは、声は問題ないものの、音楽に乗り切れずにオーケストラから少し遅れる箇所が目立ち、歌合戦の場面もばっちり決まったという感じにはならなかった。彼らにまじって、徒弟ダーヴィット役の伊藤達人は大健闘だった。