夏目漱石(1867年<慶応三年>~1916年<大正五年>)の晩年の作品『道草』(1915年<大正四年>)を読んだ。私にとって久しぶりの日本文学、久しぶりの漱石だ。
この作品は漱石の自伝風の物語で、主人公の健三は漱石自身、細君のお住は夏目鏡子夫人をモデルにしているという。健三は東京の駒込に住み、教師として東京帝国大学に通っている。インテリで理詰めの健三と学識のないお住は夫婦であってもふだんからそりが合わない。
「彼は独断家であった。これ以上細君に説明する必要は始めからないものと信じていた。細君もそうした点に於て夫の権利を認める女であった。けれども表向夫の権利を認めるだけに、腹の中には何時も不平があった」(新潮文庫版39頁)
「学問をした健三の方はこの点に於て却って旧式であった。自分は自分の為に生きて行かなければならないという主義を実現したがりながら、夫の為にのみ存在する妻を最初から仮定して憚らなかった。『あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ』二人が衝突する大根は此処にあった。夫と独立した自己の存在を主張しようとする細君を見ると健三はすぐ不快を感じた。動ともすると、『女の癖に』という気になった。それが一段劇しくなると忽ち『何を生意気な』という言葉に変化した。細君の腹には『いくら女だって』という挨拶が何時でも貯えてあった」(同199頁)
『道草』で私がおもしろいとおもうのは、まずこの夫婦の想念の行き違いだ。人間の相互理解はいかに難しいかを、漱石は、健三夫婦を題材にしながら、事細かに描き出している。また引用文を丁寧に読んでみると、漱石は健三(=自己)を全肯定ではなく、かなり批判的に見ていることも分かる。
さて物語の方は、そうした健三が通勤の途中で偶然島田という男に出会ったところから始まる。島田は健三が幼い頃の養父で、今は身寄りがなく金銭面で健三に頼ろうとする(このエピソードも漱石の実体験に基づいているという)。また健三の兄や姉も彼に無心する。大学の俸給だけではそれらの要求に応じることができず困り果てた健三だが、思いがけず、ある雑誌に書いた原稿料がはいり(その原稿は『吾輩は猫である』の初回分とされることが多い)、それで当座の金銭的問題を解決する。作品全体は、最後に健三が、教訓とも落ちともつかない次のセリフをはいて終わる。
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。」(同292頁)
結局、島田の要求と要求取り下げが『道草』の物語の骨子といえるのだが、要求される側の健三はほとんど受け身に終始し、動きに乏しい。このため『道草』を健三の物語として読むと、拍子抜けですっぽかされる。物語の運びはうまいけれども、描かれているのはコップのなかの嵐ではないかという気がしてしまうのだ。小説のテーマを探しあぐねて、勢い、夫婦の思いの行き違いにスポットがあたってしまったのではないかという感がなくもない。この作品、迷いながら道草をしているのは、もしかすると作者の漱石自身ではないだろうか。