本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

アルバイト先に退職希望を伝える

今週、アルバイト先に退職希望を伝えた。時期をどうするか会社との微調整が残っているが、希望としては、今月いっぱいで退職を考えている。

新宿のアルバイト先に退職希望を伝えた

そもそもの退職の動機は、2月に異動した新宿の職場の業務内容が細かいPC操作が多く、いたずらに疲れるばかりで自分に合わないということだったのだが、現在の気持ちは、このままだと来春出版を予定している翻訳作品の校正が間に合いそうになく、アルバイトを辞めて校正に集中したいということの方がメインになっている。この作品は翻訳に着手してから10年以上経過しているので、ここできちんと校正を終え、なんとか出版にこぎつけたい。

またそれとは別にポーランド関係の作品の出版計画も動き出した。こちらはとりあえず自費出版の予定だが、量的に少なく(原稿用紙200枚程度)、校正もほとんど済んでいるので、あとは細かなデザイン系の作業が残っているだけだ。デザインは、美大で工業デザインを学んだ若い友人に依頼する予定で、打ち合わせもすませた。

とはいえ、翻訳作業を2つかかえているとけっこう労力も必要だ。

ということで、本来であれば次の仕事探しをして、そちらを決めてからアルバイトを辞める方が収入(生活)という面では安心できるのだが、それはとりあえず先送りすることにした。不安はあるが、自分がほんらいやりたいことなので、とにかくやってみるしかないというのが今の気持ち。

 

人形との心の交流、内田善美の『草迷宮・草空間』を読む

星の時計のLiddell』(集英社、1985年~86年)に続いて、内田善美のもう一つの代表作『草迷宮・草空間』(集英社、1985年)を読んだ。人間の心をもった市松人形とその人形を拾った大学生・草(そう)の話。「草迷宮(そうめいきゅう)」というタイトルからして、内田が泉鏡花を意識しているのは明らかだ。

人形とのコミュニケーションを描く『草迷宮・草空間

執筆期間(コミック誌への掲載期間)を記しておくと、「草迷宮」が1981年、「星の時計のLiddell」が1982年~83年、「草空間」が1983年~84年。したがって作品としては「草空間」が内田の最後の作品で、その後コミック掲載の「星の時計のLiddell」に加筆して単行本として刊行し、コミック界から消え去ったということになる。

さてその『草迷宮・草空間』だが、人形と大学生が会話し、一緒に生活するという物語なので、『星の時計のLiddell』と違って、最初から幻想のなかにどっぷりつかっている。ただし幻想といっても、客観的にみると、人形が話をしているように感じられるのは、持ち主・草の人形に対する自己投影ではないかとして描き、幻想を単なる幻想に終わらせていないところが内田作品の深さだとおもう。

また「草迷宮」は、草と人形のほかに、友人の時雨(ときふる)、草の憧れの女性あけみなどをからませたスケッチ風の作品なのだが、その2年後に『星の時計のLiddell』をふまえて書いた「草空間」は、人形を含めた各登場人物の内面にさらに踏み込み、また現実と幻想のギャップからくる笑いを自在にからませた奥行きのある物語になっている。

内田がさらに作品を書き続けていたとしたら、いったいどんな作品を発表していただろうかと嘆いても仕方がないのだが、どうしても嘆きたくなるとても完成度の高い作品だ。

 

子羊のトマト煮込みに挑戦

5月があわただしかったので、今週はアルバイトの有給休暇をとって、自宅でちょっとのんびり過ごしている。

ということでふらっと近所のスーパーをのぞいてみたら、ラム・チョップ(骨付きの子羊肉)を安売りしていたので、子羊料理に挑戦することにした。レストランのメニューに載っている子羊料理というと、だいたいがグリルやローストなど焼いたものだが、それだと簡単すぎてつまらない気がしたので、今回は子羊肉のトマト煮込みをつくることにした。また主食の方も、ご飯やパンではなく北アフリカを中心とする地中海地方の食材クスクスに挑戦して、エスニック風の食事にした。子羊料理もクスクスもはじめての挑戦なのでスリル満点。

さて子羊肉の煮込みだが、ネットで調べても正統的な作り方がよく分からないので、結局なんとなくヤマ勘でつくることにした。

まずオーソドックスにニンニク、玉ネギ、セロリのみじん切りをオリーブ・オイルで炒める。子羊肉の方は、エスニックを意識しているので、塩・胡椒してから少量のクミンを炒めた油で表面にさっと焦げ色をつけ、これを赤ワイン、トマト・ペーストなどと一緒に約1時間煮込んだ。庭でローズマリーとタイムを栽培しているので、煮込むときにそれも投入した。

子羊の煮込みに初挑戦。はじめに、クミンを炒めた油で子羊の表面に焼き色をつける

今回はあまり時間がなかったので煮込んだ時間は約1時間。それで肉が柔らかくなるかちょっと心配だったが、硬さという点では特に問題はなかった。ただもう少し時間をかけて煮込めば、肉にスープがよくしみて、さらにおいしくなったかもしれない。そうした課題はあるが、はじめてつくったにしては、まあうまくつくれたかなとおもっている。

また乾燥状態のクスクスをうまく戻せるかも心配だったが、やってみたら、これはとても簡単だった。蒸したクスクスには、先日友人からもらったハリッサ・ペーストをからめてみた。子羊の煮込みとの相性も抜群で、どちらも赤ワインとよく合う。

ともかく、普段とはまったく違う目先の変わった、休日ならではのゆったりとした食事になった。

子羊の煮込みとクスクス、相性抜群だった

クスクスを戻すのが簡単だとわかったので、今度カレーなどにも応用してみようかとおもっている。

幻の作家・内田善美の『星の時計のLiddell』を読む

何年振りかで内田善美のコミック作品『星の時計のLiddell』(集英社、1985年~86年)を読んだ。

コミック・ファンでも内田善美を知る人は少なくなったのではないかとおもうが、1974年にデビューし、1986年『星の時計のLiddell』第三巻刊行を最後にコミック界から姿を消したいわば幻の作家だ。私が内田の作品を知ったのは、この作品第一巻刊行当時、たまたま六本木の書店に並べられていたのを見て。その表紙絵の美しさに、「まったく知らない作品だけど、これはきっと私好みの内容にちがいない」と購入したのがきっかけとなった。その後遡っていろいろな内田作品を読み、作者はいったいどんな人なんだろう、何を考えながら作品を書いているのだろうとおもっていたが、新作はまったく刊行されず、『星の時計のLiddell』第三巻刊行を最後に事実上引退したと知ったのは、それからだいぶたってからだ。『星の時計のLiddell』も、人に貸したら戻ってこなくなり、その後ネットで見つけて再購入した。

幻の作家・内田善美の『星の時計のLiddeell』

閑話休題

星の時計のLiddell』の舞台はアメリカ。起点はシカゴ。そこに住むヒューという若者にいつも同じ夢が訪れ、最後にヒューは、その夢に同化して現実の世界から忽然と消えてしまう。

これだけであれば、似たような物語はいくつかあるかもしれないが(特に小説の世界で。また『荘子』の「胡蝶の夢」にも何度か言及される)、この作品は、その視覚化がともかく半端でなく素晴らしい。細かい細部まで描きこんだ絵は、そのなかに吸いこまれそうだ。

ヒューの夢に登場する少女Liddell。背景の細かい描きこみがすごい


また、専門用語でなんというのか知らないが大胆なカット割りがすごい。それと言葉(ネーム)。「訪れる時間のなんという美しさ」という言葉に<かなしさ>というルビをふるといったあたり、おもわずゾクゾクしてしまう。要するに、この作品に関しては作品の構成要素すべてがあまりにも素晴らしく、作者がこれ以上の作品は描けないと姿を消したのも納得できてしまう。

今回読み返してみて特に素晴らしかったのは、第三巻の終わり、作品の結末部分のカット割りや言葉の選択。何度も夢にでてくる家をようやく探し当て、きっとヒューはその家のなかで夢の世界に入ってしまうのだろうと結末は予測できるのだが、そこでそれまでの部分と表現方法を変えることで、内田は、非現実的な物語を説得力をもって視覚化することに成功したのではないだろうか。

結末はよく知っていたのだが、それでもまさに「言葉にならない」余韻を感じた。

恵比寿『モナリザ』でフランス料理をいただく

たまには、凝ったおいしい料理の話題。

先日、知人の招待で恵比寿のフランス料理店『モナリザ』で食事をした。店はJR恵比寿駅から徒歩5分もかからない距離で、恵比寿神社の裏の一画の穴場のような場所にある。ミシュラン一つ星獲得ということで、知人推奨の高級レストランだ。

店名が『モナリザ』だから当然といえば当然なのだが、店にはいると目立つところに『モナリザ』のレプリカが飾ってある。店内にレプリカを飾る感覚、私にはちょっと理解しづらい。店全体としては、インテリアに凝ったしゃれた空間というより、高級食堂という雰囲気で、どうなることかとやや不安。

口きりにまずシャンパンをいただく

しかし料理の方はたしかに絶品。メニューはコース料理のみなのだが、その一品一品がとても凝っている。

三種のアミューズ(お通し)に続いて出てきた冷たい前菜は、ふんわりとしたブランマンジェで、オマール海老と甘海老が載っている。ともかくのどごしがとても良い。ソースと皿の色合わせをしてるところなども心憎い。

前菜のブランマンジェ

魚料理のあとが主菜。知人が勧めるので私は贅沢な「牛フィレ肉のパイ包み焼きマデラソース」をいただいた。フィレ肉の下に椎茸を敷いて、それをパイ地で丸く包んで焼き上げてある。家庭ではぜったいにつくることができないプロの技で、味も絶妙だった。

そのあとのチーズ、デザートも楽しめた。

メインの牛フィレ肉パイ包み焼き

料理に関してはすばらしくてなにもいうことがないが、最初にも書いたように、店の雰囲気や食器が、一つずつは華やかでも全体のバランスがとれていない感じがした。まあ、「難しいことは言わず、ともかく味わってみてください」ということなのだろう。

 

横光利一の短編集を読む

横光利一(1898年<明治31年>~1947年<昭和22年>)の代表的短編小説と中編小説を集めた『日輪・春は馬車に乗って』(岩波文庫、1981年)を読んだ。横光利一の名前は知っていても、今まで作品を読んだことがまったくなかったのだが、きっかけとなったのは森敦。横光は森敦を見出し、結婚の媒酌までしたというので、この機会に読んでみようとおもいたった。

横光利一の短編集を読んでみた

さて岩波文庫の作品集のなかで一番おもしろかったのは中編『機械』(昭和6年)。これはあるネームプレート製作所の話。ここで横光は、後のフランスのヌーヴォー・ロマンをおもわせるような文体創出の工夫をしている。そして単に新しい文体で書いたというだけでなく、それをつかって独自の物語を紡ぎ出すことに成功しているようにおもった。

その文体の一例を引くと、こんな感じだ。

「さてその日主人と私は地金を買いにいって戻って来るとその途中主人は私に今日はこういう話があったといっていうには自分の家の赤色プレートの製法を五万円で売ってくれというのだが売って良いものかどうかと訊くので、私もそれに答えられずに黙っていると赤色プレートをいつまでも誰れにも考案されないものならともかくもう仲間たちが必死にこっそり研究しているので製法を売るなら今の中だという。それもそうだろうと思っても主人の長い苦心の結果の研究を私がとやかくいう権利もなしそうかといって主人ひとりに任しておいては主人はいつの間にか細君のいうままになりそうだし、細君というのはまた目さきのことだけより考えないに決まっているのを思うと私もどうかして主人のためになるようにとそればかりがそれからの不思議に私の興味の中心になってきた。」(同書152頁)

日本文学史のなかで横光は新感覚派とされるだが、旧感覚派も読んでいない私には、新旧の是非の判断はできない。ただこの『機械』は、横光の意図がいきて、今読んでみても斬新な印象だ。作品は、主人公の視点をとおしたこうした説明的な長い文章が延々と続いていくのだが、そのため逆に客観的な事実は曖昧になり、従業員の死という事態が生じてもその真因は不明のまま終わる。

これ以外で印象に残った作品は『春は馬車に乗って』(昭和2年)と『花園の思想』(昭和3年)。両作品は横光の妻の看病記だが、看取っている主人公の心理はあまり深追いせず、さらりと書いているところが優れているとおもった。『機械』の主観的描写とはまったく逆だ。

作品集の表題作『日輪』(大正13年)と『蝿』(大正13年)は横光の文壇デビュー作だが、私にはその真価がよく分からなかった。

 

はじめてのハリッサ料理に挑戦

友人から地中海地方の調味料ハリッサ・ペーストをもらったので、今日は夕食で、らせん状のショート・パスタ<フジッリ>とハリッサを使った料理をつくってみた。

ハリッサをつかったなんとなくプロヴァンス風の料理に挑戦

はじめての挑戦なので具材をどうするかちょっと迷ったが、オーソドックスに、ピーマン、ナス、ソーセージをみじん切りにしたニンニクと一緒に炒め、それにハリッサ・ペーストをからめてみた。

ハリッサ・ペーストを恐る恐る入れてみた


ハリッサは唐辛子が原料で辛いというので恐る恐る入れたが、ソースの量が少ないかなという気がしたので、それにトマト・ソースを追加した。さっそく食べてみたらそれほど辛くもなくて白ワインと良く合い、はじめてつくったにしてはけっこう美味しかった。