本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

鎌倉で写真展を観る

昨日(11月23日)から、神奈川県立近代美術館鎌倉別館で写真展が始まったので、夕刻、同別館を訪問して作品を鑑賞してきた。

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部分と全体が違うイメージで構成された不思議な写真の展覧会

今回の展覧会の写真家は、眼の前の対象をそのまま撮影するのではなく、中心になる対象を、それとはまったく無関係な魚や野菜などと組み合わせてデフォルメし、そのデフォルメされた対象を撮影するというマニエリスムの画家アルチンボルドを思わせる作風で知られている。今回も、しかめっ面をした文学者に魚でできた帽子をかぶせた肖像写真などユニークな作品が展示された。閉館後に学芸員と少し話をしたが、「自分からすると、この写真家の作品はシュルレアリスムのアーチスト・ベルメールと共通するところがあると思う」という見解をきいて、なるほどとおもった。簡単に言うと、それは、分節化された無意味なパーツを組み合わせて、全体として新たな意味を現出させるということだ。

また閉館後、場所を移動しての歓談のなかで、詩人のTさんから、先日刊行された雑誌『ユリイカ』の特集号のなかで私が書いた本を自分も実際に読んでみたいので、手元にあったらコピーを送って欲しいという思いがけない依頼があり、私の記事をきちんと読んでくれているということがうれしかった。

この展覧会は来年の1月30日(日)まで開催。

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/exhibition/2021-kon-michiko

『蓋棺 庄内藩は一度も官軍に負けなかった』を読む


『秋田・庄内 戊辰戦争』(郡 義武)に続いて、庄内史シリーズの一環として『蓋棺 庄内藩は一度も官軍に負けなかった』(茶屋二郎、ボイジャー、2014年)を読んだ。戊辰戦争の際に庄内藩の重役として軍事掛を務め、戦後の明治初期には庄内地方復興と対外的な折衝にあたった菅実秀(=菅秀三郎、1830年1903年)の行動を、主として西郷隆盛(1828年~1877年)との交流を中心に描いた歴史小説だ。

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庄内藩西郷隆盛の交流を描いた『蓋棺』

この小説の前史として、次のような事実がある。庄内藩戊辰戦争(1868年<慶応四年/明治元年>)で朝敵とされ、秋田藩と官軍の連合軍と戦い、連戦連勝の進軍を行ったが、明治元年9月、秋田城攻略を目前にして撤兵した。これには、寒さの到来で装備が不足した、人員や武器の補給が続かない、奥羽越列藩同盟参加の他藩が次々に降伏し孤立化する怖れがあるなどの理由があったが、いずれにしても庄内に兵を納め、官軍の沙汰を待つことになった。

そこに乗り込んできたのが総司令官の西郷隆盛で、庄内・鶴岡に着くと単身で菅を訪問する。菅はまず、「西軍の総大将が一人で羽織も羽織らずに袴姿で敵地を歩くという豪胆さ」(15頁)に驚くのだが、それに続いて西郷は、「譜代の酒井家が三百年の恩顧のある徳川家のために国運をかけて戦ったのは当然のことで、羲においてもかくあるべきで何も恥ずかしいことはありませぬ」(19頁)と意外な言葉を述べ、謹慎中の藩主・酒井忠篤との面会を求める。そしてその会見で「貴家がすでに朝廷に謝罪した上は敵視は只今限りで、もはや兄弟も同様でございます」(31頁)と、寛大な態度を示す。

この時点から西郷と菅実秀とのやりとりが始まるのだが、菅は西郷の人格に惹かれ、庄内救済のためことあるごとに実力者・西郷に頼っていく。

西郷がなぜ庄内に寛大だったのか、この小説を読んでも疑問は残るが、その寛大さは事実であり、小説の後半は、菅からみた西郷の政治思想の解明と、西南戦争にいたる経緯に比重がおかれる。そして西郷と大久保利通の相次ぐ死を紹介し、『正邪、今なんぞ定まらん、後世、必ず清を知らん』という西郷の言葉で全体が結ばれる。

菅の息子が鹿児島で西郷が主宰する私学校に入学するなど史実と異なる部分もあるが、私にとって、庄内史の認識を深めるにはかっこうの本だった。

私の出身地・庄内を描いているということで採点はどうしても甘くなるが、歴史小説としてはまずまずではないだろうか(少なくとも『竜は動かず』よりは丁寧に書かれている)。ただあえて言えば、地の文で西郷隆盛を「西郷先生」と表記しているのに違和感をおぼえた。ここは、「西郷」という表記の方が、西郷隆盛の言動に客観性を与えられたとおもう。

今後の年金を相談

本日は、寓居の近くにある街角の年金相談センターに行き、今後の年金の相談をしてきた。というのも、現在の私のアルバイトが来年3月で打ち切りなので、それ以降の生活を考えると、受給できる金額を早目に確認しておいた方がいいとおもったからだ。

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近くの相談センターで今後の年金について相談

私はこれまでたびたび仕事を変えているので、受給できる年金は元々それほど多くはない。それを少しでも増やした方がいいと、受給を先送りする繰下げを選んでいるのだが、現在の仕事が終了すると、最悪、来年4月以降それをすぐに受給する必要が出てくるかもしれず、その場合の金額確認が本日の相談のメイン。結果としては、来年から受給すると金額はそれほど増えず、やはり70歳から受給した方がいいかもしれないということになった。すると結局、70歳まで何かまたつなぎのアルバイトを見つける必要があるのだが、それが確認できただけでも今日は相談したかいがあったといえそうだ。

がっかりした『マイスタージンガー』公演

昨日は新国立劇場でのワーグナーニュルンベルクのマイスタージンガー』新演出公演の初日だったので、楽しみにして行ってきたが、失望した。

この公演、そもそも昨年新国立劇場東京文化会館の初の共同企画として制作されたもので、去年の両公演はコロナで延期となり、今年夏の東京文化会館の公演もコロナ感染者増加で中止となって、昨日ようやく、待望の初日を迎えたといういきさつがある。

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ワーグナーを否定するような演出でかっかりした『マイスタージンガー

さて公演の方だが、字幕をじっくり読みながら聴いているうちに、まずワーグナーの台本そのものに矛盾があるのではないかという気がした。というのは、『マイスタージンガー』はドイツでの歌の伝統をどのように維持し革新していくかがテーマで、伝統が行き詰ったとき、新しい歌い方(歌い手)を導入し、それを支持するかどうかは民衆に判断を仰ぐべきだという物語なのだが、肝心のワーグナーの音楽自体が民衆的かという疑問がふつふつと沸き起こってきたのだ。つまり、ワーグナーの主張はかっこいいが、彼の音楽そのものは少しも民衆的ではないのではないかということだ(笑)。

それはさておき、ともかくワーグナーの主張を認めて最後の歌合戦まで聴きとおすと、今度は演出(J・D・ヘルツォーク)が、革新による伝統の継承というワーグナーの意図を否定するというどんでん返しがあった。これにはあっと驚いたというか、一瞬舞台の上で何が起こったのか理解できず、割り切れない幕切れだった。これは結局、演出家の解釈の押し付けであって、演出という範囲を超えているのではないだろうか。

舞台衣装はスーツなど現代的なもので、歌合戦のときに挑戦者である騎士ヴァルターがネクタイをきちんと結んでいないことがちょっと気になったのだが、それもそらく演出と関係したものだったのだろう。

大野和士が指揮したワーグナー公演では、数年前に観た『ローエングリン』もワーグナーの意図を否定するような演出を容認していて、それが大野氏の考え方なのかなともおもうが、そこまでして公演する必要があるのか、私には疑問だ。

今回の公演、コロナ予防のため「ブラボー」などの歓声はおやめくださいというアナウンスが何度も流れたが、終幕と同時に大きなブーイングがあった。

歌の方は、トーマス・ヨハネス・マイヤーの主役ハンス・ザックスとギド・イェンティエンスのポーグナーの低音2人は見事だったが、若い騎士ヴァルター役のシュテファン・フィンケは、声は問題ないものの、音楽に乗り切れずにオーケストラから少し遅れる箇所が目立ち、歌合戦の場面もばっちり決まったという感じにはならなかった。彼らにまじって、徒弟ダーヴィット役の伊藤達人は大健闘だった。

『秋田・庄内 戊辰戦争』を読む

『秋田・庄内 戊辰戦争』(郡 義武、新人物往来社、2001年)を読み終えた。東北地方と越後の諸藩が奥羽越列藩同盟を結成して官軍と戦った戊辰戦争(1868年<慶応四年/明治元年>)の際の庄内藩の戦闘をたどった実録作品だ。

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戊辰戦争で、庄内軍は北斗七星の旗のもと奮戦した

幕末に、庄内藩は幕府から江戸の治安維持・警護を命じられ、京都の新選組に相当する新徴組を統括したが、このため新政府が成立されると会津と並んで朝敵と名指された。朝敵とされた庄内・会津を救済するために結成されたのが冒頭に記した奥羽越列藩同盟だが、諸藩の思惑の違い、軍備の立ち遅れなどから連敗を続けてあっけなく瓦解した(『奥羽越列藩同盟』<星亮一>参照)。このなかで、孤軍奮戦して連戦・連勝したのが庄内軍で、日本海側と内陸から同盟を離脱した秋田藩を攻め、無敗のまま撤退し、鶴岡を無血開城した。あまり知られていないかもしれないが、庄内藩は、戊辰戦争の際の幕府側で官軍に負けなかった唯一の藩ではないだろうか。

『秋田・庄内 戊辰戦争』は、この戦争の詳細を庄内側の記録だけでなく実質的に敗北した官軍の記録からもたどったもの。その奮戦については、庄内出身者としておおよそ知ってはいたのだが、この作品を読んで、庄内藩はほんとうに強かったのだなと、あらためて驚かされた。

庄内軍は四大隊に分かれて秋田城に向けて進撃したのだが、本書はその戦闘を、新庄を攻略したのち、湯沢・大曲など雄物川沿いの内陸部から秋田城を目指した一番・二番大隊を中心にまとめている。カバーデザインに使われているのは、紺地に金の北斗七星を描いた二番大隊の「破軍星旗」。

本書によれば、庄内軍の強さのポイントは、新式の銃を備えていたことに加え、指揮官の指導力が優れており全軍の戦意が高かったこと、戦略が優れていたこと、ということになるだろうか。庄内軍には、「老巧の上田伝十郎、果断の酒井治郎右衛門、剛勇の寺内権蔵、悠々の相良惣右衛門、飄々とした神田六右衛門など、個性的で有能な指揮官がそろっていた。もちろん、これらをまとめた副将竹内右膳の人柄もある。このチームワークの良さに大隊長酒井吉之丞の武士道精神を守り、積極果敢、敵の意表をつく卓抜な戦法、不屈の精神、これらが小隊長によく理解され、総合的にプラスされ、実力以上の力を発揮したのであろう」(同書236頁)という。

私としては、とても気分よく読めた本だった(笑)。ちなみに、著者の郡氏は三重県出身であり、けっして身びいきでの執筆ではないと思われる(為念)。

江戸時代のロシア漂流記『おろしあ国酔夢譚』

DVDで映画『おろしや国酔夢譚』(佐藤純彌監督、1992年)を観た。
1782年(天明二年)に神昌丸という船で伊勢から江戸に米を輸送する途中、嵐にあってアリューシャン列島に漂着し、苦労の末1792年(寛政四年)にロシア船で帰国した船乗り大黒屋光太夫ら一行の異国体験を描いた、実話に基づく作品だ(原作・井上靖)。

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江戸時代にロシアに漂着した日本人の体験記『おろしあ国酔夢譚』

太夫は、シベリアを横断して帝政ロシアの首都ペテルスブルクに行き、そこで女帝エカチェリーナ2世に直訴して日本に帰国するのだが、極寒のシベリアや華やかなペテルスブルク(撮影当時はレニングラード)のロケをふんだんにつかい、演出そのものはかなりおさえている。光太夫役の緒形拳の演技も控え目だ。このため、ドラマを観ているというより、実際のできごとに立ち会っているような印象があり、感銘が深かった。映画は約2時間で終わるのだが、そこに光太夫が体験した10年の歳月が凝縮されているような感じだ。

また光太夫らのロシア体験と帰国後の江戸社会の落差もうまく出ている。それが、ロシア体験が夢だったのか、帰国して味わう江戸時代の日本の現実の方が夢なのかという作品タイトルにつながっていくのだろう。

ただし映画では、帰国後の光太夫と伴の磯吉は罪人扱いだが、『開国への道』(平川新、小学館、2008年)によれば、現実には「幕府は光太夫と磯吉に、報奨金として金三〇両のほか、養い金として光太夫には毎月三両、磯吉には二両を与えている。こうした破格の待遇を与えたのは、貴重なロシア情報をもつ両人を幕府の膝下に置いておくためだった。光太夫蘭学者たちと自由に交際し、磯吉もあちこちでロシア語を疲労しているように、彼らは幽閉されてはいなかった」(同書114~5頁)という。このくい違いは、原作出版当時に、幕府は異国体験をもつ光太夫らを他の人々と接触させて異国情報が流出するのを警戒したのではないかと推測した井上靖の判断によるようで、その点は割り引いて観る必要がある。

ちなみに、光太夫がペテルスブルクで謁見を許された女帝エカチェリーナ2世は、フランスの哲学者ディドロの庇護者としても知られている。ヨーロッパと日本の18世紀が微妙に交差するところも、この作品のみどころといえるだろう(光太夫がロシアにいるあいだにフランス革命が始まっている!)。

次の仕事のことを考えると、もらった柿も複雑な味

今日、私のアルバイト先の同僚女性から柿をもらった。私の故郷・庄内地方の特産・庄内柿だ。実はこの同僚(アルバイトの先輩でもあるのだが)は、休憩時間に話をしたら酒田市出身と分かり、それ以来、同じ庄内地方出身ということで仲良くしている(私は隣の鶴岡市出身)。とは言うものの、実は現在のアルバイト先の仕事が来年3月で打ち切りとなることが先日発表され、せっかく生まれた同僚との縁もそれまでかなと少し寂しい思いをしている。

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庄内柿は甘くておいしいのだが…

また現実には、私は、現在の賃貸住宅の家賃を捻出するためにアルバイトをはじめたので、アルバイトの仕事がなくなると生活の心配もしなくてはならなくなる。会社の方では、3月末までに新しい仕事を斡旋すると言っているのでまずはそれに頼るしかないのだが、自分の年齢などを考えると、来年4月以降仕事が確保できるか不安は残る。

もらった庄内柿は甘くておいしいのだが、次の仕事のことを考えると複雑な味だ。