本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

ボールドウィン『もう一つの国』を読む

アメリカの黒人作家ジェイムズ・ボールドウィン(1924年~87年)の『もう一つの国』(野崎孝訳、新潮文庫)を読んだ。カポーティ(1924年~84年)と同じ年の生まれで、亡くなった年も近い。またゲイというセクシュアリティも共通する。ただしカポーティの作品、たとえば『遠い声遠い部屋』『草の竪琴』では、ゲイは作品の背景の一つとして描写されるのに対し、ボールドウィンの『もう一つの国』では、正面から取り上げられる。

また、セクシュアリティ以上に大きいのが人種差別の問題で、黒人と白人が愛し・理解し合うことは可能か、また実際に差別があたりまえの事として定着している社会のなかで、黒人と白人のカップルの愛は、愛し合う当事者二人だけの問題として解決できるのか、またもしそれが社会とのかかわりあいの問題でもあるならば、二人はどのように社会と向き合っていくのかという問題としても、問いかけられる。

同性愛が抱える問題もこれとほぼ同じで、それは愛し合う二人だけでなく、二人の関係が受け入れられるかという社会との関係の問題でもあることが、作品をとおしてあらためて明らかにされる。

では、白人男女であれば愛し合うことは容易かというと、ボールドウィンはそう単純には考えない。第一部で理想的な夫婦とおもわれた作家志望のリチャードとキャスの関係は、リチャードの作品が世間的に認められるもののキャスがその評価に否定的であることから崩壊していく。

作品は三部構成で、第一部では、黒人の青年ルーファスと白人女性レオナの愛が、発端、破綻、ルーファスの自殺という形で描かれる。

第二部は、ルーファスの友人でイタリア系の青年ヴィヴァルドとルーファスの妹アイダ、リチャードとキャス、ルーファスと性的関係があった白人男性エリック(ユダヤ人?)とその恋人のフランス人青年イーヴの愛の形が三組三様に描かれ、ちょっとしたことをきっかけにカップルが組み替えられていく(この組み替えはやや図式的すぎるような気もするが、組み換えがないと作品が成立しない)。

第三部はその帰結で、三組の愛の未来が暗示されるのだが、それは必ずしも明るいものではない。

私はこの作品を20代か30代に読んでおり、非常に感銘を覚えたことは記憶しているのだが、その感銘の詳細を忘れてしまったので、今回、さまざまなアメリカ人作家の作品を読む中で再読してみた。1960年代初期のニューヨークの風俗や情景が生き生きと描写されており、半世紀以上前の作品ではあるが、作品の問いかけそのものは少しも古びていないようにおもった。

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原種グラジオラスが成長

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寒さのなかで、南アフリカ原産のアヤメ科植物グラジオラス(Giadiolus、グラディオルス)が順調に成長している。グラジオラスというと、一般的には夏にカラフルな花を咲かせる園芸植物のイメージが強いとおもうが、原種は南アフリカからヨーロッパにかけて広く分布しており、気候の関係で、水仙やチューリップなどと同様、秋に芽を出して春に開花するものが多い。

私はカリナトゥス(carinatus)など6種類の原種グラジオラスを栽培しているが、いずれも南アフリカ東部の海岸に近い地域に自生するもので、この地域は、南氷洋からのベンゲラ海流が北上するために寒冷で、秋から冬にかけて雨が降り、夏は乾燥する。このため南アフリカ東部のグラジオラスは雨季である秋から早春に成長して春に花を咲かせ、夏には球根のまま完全に休眠する。

グラジオラスの属名は葉が剣(gladius)のような形をしていることに由来するが、私が育てているグラジオラスの葉はみな剣状というよりは細長く、またそれぞれの葉っぱをよく見ると、カリオフィラケウス(caryophyllaceus、上段左から2番目)、タウベルティアヌス(taubertianus、上段左から4番目)は、軽く渦巻いていて、剣としては役に立ちそうもない(笑)。

寒さを耐え抜いて開花してくれるのが楽しみだ。

まったりとチーズを食べる

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今日は、新宿の百貨店でチーズ盛り合わせを買ってきて、夕食後にベルモット、マディラ酒と合わせて食べた。マディラもいいが、Antica furmulaというイタリアのベルモットも、苦さと甘さがミックスされた独特の風味が格別。お酒が大好きだった女優のEさんにも献杯。喜んでくれるかな?

野生のラッキョウが開花

原種のラッキョウが咲き出した。園芸店でミヤマスズフリラッキョウの名前で売られていたのを買い求めて育てているのだが、野生のラッキョウの分類は非常に微妙で、正式な名称はどうもよく分からない。ネットで見ると、イトラッキョウ(Allium virgunclae)に近いようだ。いわゆるラッキョウ(Allium chinense)とは異なる、草丈15cmほどのミニ・サイズの植物だ。

ラッキョウを含むネギ属(Allium)は大きなグループで、ネギ、ニンニク、ニラなど食用になるものも多い。また根元や球根に刺激臭があるものが多く、それが人間の食欲を刺激するわけだが、植物からすると、動物に食べられるのを防ぐための自衛手段ではないかという気がする。

実は、ラッキョウだけでなくネギ属の分類そのものが難しく、ユリ科、ネギ科などいろいろ変更されたが、最近はヒガンバナ科のなかのネギ亜科ということになっているらしい。ヒガンバナ科の植物の大半は1本の花茎の頂点に集合花(いわゆるネギボウズ)をつける。このイトラッキョウ?もその例外ではない。

ピンクの小さな花が風に揺れてかわいらしい。

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カポーティ『冷血』を読む

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トルーマン・カポーティ(1924年~84年)の『冷血』(佐々田雅子訳、新潮文庫)を読んだ。1959年にアメリカ・カンザス州で起こった一家4人殺害事件とその顛末や背景を描いたノンフィクション小説だ。

カポーティが意図したものかどうかは別にして、私がこの小説を読みながら感じたのは、いわば無常観。第三者による意図せざる突然のものか、裁判という制度によって決定されたものかというプロセスは別にして、すべての人間がいつしか束の間の生を終えて消え去るというはかなさだ。

そうした印象を受けるのはまず、小説の冒頭で、殺害されるクラッター一家4人の日常生活が細かく描かれることによる。

事件は金を奪うことを目的にまったく縁のない一家4人を殺害するというものなので、その事実を描くだけならば被害者一家(やそのまわりの人々)の日常の描写は不要とおもわれるのだが、カポーティはそれを事細かに描写する。そしてその日常はほんらいであればほとんどなんの変化もなく続いていくはずだっのだが、悪意をもった2人の侵入によって突然中断される。

その犯人2人についても、過去や家族関係、性格が細かく描写され、果たして強盗殺人という犯罪は必然だったのか、また事件そのものが必然だとしても死刑という判決に情状酌量の余地はなかったのか、暗々裏に問いかけられる。そこに、善人の死は哀れで、悪人の死(処刑)は当然といった勧善懲悪的な考え方ははいってこない。

また処刑という最期の問題は別にして、2人の犯人はどうしようもないならず者、強盗殺人事件を犯さなかったとしても何か社会的事件を起こさざるをえない欠陥をもった人間として描かれるのだが、もしかするとカポーティは、社会生活に適応できないならず者の生い立ちに、最初から強い関心を抱いていたのではないだろうか。というのは、彼の中編『ティファニーで朝食を』(1958年)の主人公ホリー・ゴライトリーも、やはり社会生活を拒否した女性だからだ。

映画『ティファニーで朝食を』では、オードリー・ヘプバーン扮するホリーは最後に小説家ポールとつき合うことを選ぶのだが、原作の小説では、ホリーはブラジルに逃避し、そこからまたアフリカを彷徨うことになっており、普通の社会生活をおくれるようにはおもえない(こころみに映画の続きを考えてみても、ホリーとポールの恋愛生活はすぐに破局を迎えるのではないだろうか)。

フィクションとノンフィクションの違いはあるが、女性であればまだ許される自分を社会に適応させることの拒否も、男がやると犯罪になってしまう。そして、そうした社会に適合できない人間に、ゲイのカポーティは共感を抱いていたのではないだろうか。

こうしたテーマの問題は別にして、カポーティの全体構成は非常に巧みだ。

つまり、『冷血』はノンフィクションだからといって取材した事実をそのまま並べたような作品ではなく、作品にするために、カポーティはいろいろ取捨選択したり、事実の配置に工夫している。

その幾つかをあげれば、まず、冒頭、時間どおりに描写をすすめながら、殺害の詳細を省いている。その悲惨な現場の描写を入れれば、作品はよりセンセーショナルなものにはなったかもしれないが、事件の背景を考えさせるという展開にはならなかっただろう。

同様に、殺害の詳細は後に犯人の自白として説明されるのだが、この点も、描写を第三者化していないために、できごとの心理性あるいは主観性が強まっているようにおもわれる。

結果として、『冷血』は、ノンフィクションだから迫力があるといったレベルを超えた、優れた作品になっているとおもう。

静かなもてなし

23日までの連休を利用して、昨日は9月に引っ越して以来はじめて友達が遊びに来てくれた。コロナ禍の最中なので、静かなもてなしとなったが、牛スネ肉の赤ワイン煮込みやシーフード・サラダをつくり、用意したボージョレ・ヌーヴォーを開けて、互いの近況をいろいろと語り合った。

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ボージョレ新酒をテイスティング

本日はフランスの赤ワイン、ボージョレ・ヌーヴォーの解禁日。コロナ第三波が拡がりだしているのでけっこう悩んだが、新宿のワインバー、マルゴグランデで解禁されたばかりのボージョレ新酒をテイスティングしてきた。何杯か飲んだので、さいごはすっかり酔っばらってしまったが(笑)、まあそこそこの味。ちなみにマルゴグランデでは、ボージョレ・ヌーヴォーだけで9種類テイスティングできる。

それとは別に、鹿児島のY君宅にボージョレ・ヌーヴォーを送っておいたのだが、家に帰ったら留守電にY君のお父さんからボージョレが届いたというメッセージが入っていた。さっそく仏前に備えてくださったという。

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